孔舎衛坂 丞

「入居年 2001年 退居年 2011年」

詳細

孔舎衛坂 丞(くさえざか たすく、1980年1月26日 – )は日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現U-17日本代表のフィジカルトレーナー。


【生涯】
《生い立ち》
1980年1月26日、都内の一般家庭の長男として生まれる。父親が高校と大学でサッカーをやっていた影響か、物心がついた時にはサッカーボールで遊んでいたという。
やがて近所の少年サッカー団に入団。8歳の時より小学校高学年に混ざってプレイできるほど上達が早かったという。
当初父親と同じセンターバックを希望していたが、生来の負けず嫌いと荒っぽい性格から厳しい競り合いを好んだためにファウルの数が増え、反省を促す意味でサイドアタッカーへと転向させられる。
だがこのコンバートがピタリとはまり、右のウィングとして大きな成長を遂げる。

《サッカーの名門校へ入学》
1992年、中高一貫のサッカー名門校である理伊豆中学校へ入学。一年次よりレギュラーを務める。当時の理伊豆中学校及び高等学校のサッカー部監督は現在U-17の代表監督を務める朝臣 弁慶であり、このころから朝臣は孔舎衛坂の才能を評価していたという。
このころはメインポジションとして右のウィングを担当していたが、中盤が不足していたことからサブポジションとして右サイドハーフも兼任。次第にその割合が増えていき、三年次にはほとんどメインポジションが右サイドハーフとなっていた。
1995年の全日本ユース選手権には、当時まだ中学三年ながら理伊豆高等学校のメンバーとともに出場。大会を通して1ゴール2アシストを決める活躍を見せ、多くのユースチームスカウトに注目される。
中でもアトレティコ東京のユースチームからは加入の勧誘が届いたが、恩師の元から離れることを良しとしなかったためこれを断り、1996年に理伊豆高等学校へ進学。不動のレギュラーとして二年次には副キャプテン、三年次にはキャプテンを経験し全日本高校サッカー選手権へ東京代表として三年通して出場する。

《膝十字靱帯断裂と引退》
卒業間近の1998年、アトレティコ東京から再度の勧誘があり、トップチームへの加入が内定したことでこれを受諾し正式に契約。しかし卒業前に行われたアトレティコ東京トップチームの練習試合で激しいチェックを受けて転倒。右の膝十字靱帯を断裂するという大怪我を負う。
メディカルチームのトレーナーたちの尽力により、車椅子生活を余儀なくされることは回避されたが、全治1年2か月という重度の怪我に本人を含め関係者一同は心の底から落胆したという。
アトレティコ東京はその才能を惜しみ、全治までの治療費とその後のリハビリ費をすべて負担すると表明。そのおかげで治療とリハビリに専念することになった。
しかし1年2か月の治療、そして1年間のリハビリも甲斐なく、日常生活に支障がないものの走ったり長い時間負荷をかけると発生する膝の痛みを除くことができず、契約を自ら打ち切り引退。引退時の年齢は20歳であり、無念にも選手としての人生を終えることになる。

《アトレティコ東京のユーススタッフへ》
2000年、現役を引退後は一時サッカー界から距離を置いた生活をしていたようである。一部のメディアによると、夜な夜な街へ繰り出しては喧嘩をするというような荒れた生活を送っていたとされ、本人もそれを否定はしていない。
しかし2001年、かつての恩師朝臣 弁慶がアトレティコ東京のユース監督へ就任すると、孔舎衛坂をユーススタッフとして迎え入れる。朝臣によると「あれで意外と面倒見がよいし、むしろ選手としてより大成できるかもしれない」とのこと。
ユーススタッフとなった後しばらくの間は通常のスタッフだったが、2003年にはC級コーチライセンス、2005年にはB級コーチライセンスを取得し本格的にコーチとしての道を歩き始める。
コーチとしてはアトレティコ東京のフィジカル部門を担当し、また技術指導を行った。

《U-17日本代表ユースコーチ》
2011年、A級コーチライセンスを取得する。また同年、恩師の朝臣がU-17日本代表の監督に就任することから、帯同するユースコーチとして選抜される。
現在も同代表のユースコーチを務める。


【プレイスタイル】
利き足は右で、主に右サイドを得意とし、サイドハーフからの一瞬の加速とボールコントロールによって敵陣を突破、そこから中へ入れるクロスは一級品とまで言われた。スタミナも平均以上はあり、高校生時代の公式戦記録では負傷を除いた途中交代はなく、平均78分の出場時間記録を持っている。
また大怪我による引退のため体質の弱さに言及されることもあるが、打ち身や打撲といった軽度の負傷を除くと選手人生においての大きな負傷は引退時の怪我のみであり、実際には体幹バランスも良く負傷とは無縁の頑健な肉体だったという。
幼少期の希望はセンターバックだったものの、基本的にはかなり攻撃的なサッカーを好み、消極的な理由からボランチを担当した際には試合後に監督へ不満を直訴するところもあったという。


【経歴】
《選手として》
1992年 理伊豆中学校サッカー部「理伊豆ユナイテッドジュニア」
1995年 理伊豆高等学校サッカー部「理伊豆ユナイテッド」
1998年 FCアトレティコ東京
2000年 引退

《指導者として》
2001年 FCアトレティコ東京ユース スタッフ
2003年 FCアトレティコ東京ユース トレーナー
2003年 FCアトレティコ東京ユース フィジカルコーチ-
2007年 FCアトレティコ東京ユース フィジカルコーチ兼任テクニカルコーチ
2011年 U-17日本代表 ユースコーチ

【人物】
・選手としても人間としても、非常に勝ち気で負けん気の強いところがあり、常に一番を目指していた。
 ・プレイスタイルもそのアグレッシブな性格に引っ張られていたが、ボールコントロールに関しては極めて繊細であり、シルクタッチと呼ばれた。
 ・一方で指導者としては非常に慎重であり、体力と体幹を鍛えてこその技術であるという持論からまず怪我をしない体づくりを目指した指導を行っている。

・サッカー選手としての経歴を終えた後、アトレティコ東京のコーチとなった際に以下のようなエピソードがある。
 ・「私がFCアトレティコ東京のユース監督に内定したとき、真っ先に孔舎衛坂をスタッフとして招聘しようとした。面倒見が良かったし、あれほどの才能の人間をサッカー業界から放逐するなどもってのほかだ。例えコーチとしてだとしても、呼び戻さなければならない。
  だが本人に連絡をしようとしても音信不通で、それで孔舎衛坂の両親に連絡すると家を飛び出したまま帰ってこないらしい。どうしようもないからしばらく探し回ったところ、なんでも新宿の不良どもとつるみながらホームレス生活をしているという噂があった。それで噂の場所に行ったら小汚い状態の孔舎衛坂が居て、思わずカッとなって、殴り倒して連れて帰った。
  ただ家に連れて行くとまた、どこかへ飛び出してしまいそうだったので、ご両親には連絡を入れて当時私が住んでいたアパートに孔舎衛坂を放り込んでサッカーボールだけ与えて、私はアトレティコ東京のゲストハウスに泊まり込みだ。だがそれで孔舎衛坂がサッカーへの情熱を取り戻すならそれでいい。
  孔舎衛坂はサッカーの神に見放された天才で、しかしサッカー馬鹿だが、それでもミラーボールと夜の街なんかより、サッカーボールとグラウンドの方が良く似合う」(出典:Web情報サイト「サッカーカイザー」 コラム 未来を担う指導者たち『第六回 "サッカーの神に見放された天才 孔舎衛坂 丞"』)
 ・孔舎衛坂が朝臣の住んでいたアパートでの生活を始めた際、朝から晩までひたすらリフティングをして過ごしていたらしい。そのせいか、現役選手と比べても遜色のないボールコントロールを今でも出来るという。

・怪我の後遺症に悩まされながらも、数分だけであれば以前と変わらないプレイが出来るようである。
 ・2015年にユーススカウトの一環で母校理伊豆高等学校でサッカー教室が開催された際、コーチとして参加していたが紅白戦の後半ロスタイムでサプライズ参加し、僅か4分であったが1アシストを決める活躍をした。
 ・この件を受けて一時期スーパーサブを探していたアトレティコ東京が、ロスタイムの切り札として現役復帰の打診をしたとされている。

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