喜多河 誠司

「入居年 1989年 退居年 1998年」

詳細

喜多河 誠司(きたがわ せいじ、1960年11月17日 – )は日本の技術者、モータースポーツエンジニア。紫綬褒章受章者。


【生涯】
《生い立ち》
1960年、東京の下町にある町工場「喜多河モータース」の長男として生まれる。幼少期から体が弱く、また内気な性格であり、外で遊ぶよりも父の隣で機械をいじっているほうが好きな子供だったという。
小学校に入学後は友達を作ることもなく、学校でもぼんやりしていることが多かったため、いじめの対象になっていた時期があり、そのことが内向きな性格をさらに助長することになった。日中はそこそこに勉強し、学業が終わると自宅にまっすぐ帰って、工場のプレス機や旋盤をいじるという少年期を過ごす。

《中学卒業と両親の死》
1975年、中学校を卒業すると高校には進学せず、実家の工場を手伝い始める。しかし2年後、父親が操業中の事故で亡くなり、さらに遺された借金の担保として自宅でもあった工場を手放すことになってしまう。
誠司は致し方なく母とともに都内の小さなアパートへ引っ越し、手近な工場で働き始めるも、1981年には父の後を追う様にして母親も病に倒れ天涯孤独の身になる。

《日雇い労働者と非正規労働者の日々》
生来の内気さと他者との交流を好まない性格ゆえか、同じ場所で長く働くことができなかった誠司ではあるが、それでも自分が働けるのは機械いじり以外無いと考えていたようで3年ほどの間、日雇い労働者としてあちこちの工場で働いた。
やがて都内の自動車整備工場に非正規労働者として雇用されると、修理や整備を担当するエンジニアとしての道を歩き始める。しかし給料は安く、隙間風が吹き込む安アパートの家賃を支払ってしまえば手元には生活できるギリギリの金しか残らなかったといわれる。

《東京発動機エンジニア時代》
1989年、過労と栄養失調で倒れたことを機に自動車整備工場に対して賃上げと労働環境の改善を要求。賃上げは受け入れられるも、労働環境の改善が見られなかったことから自動車メーカーへの転職を考え始め、独学で様々な勉学に打ち込む。その結果、翌年の1990年には都内の大手自動車メーカー「東京発動機」の採用試験に合格。車体整備部のエンジニアとして整備を担当することになる。
折しもその頃はちょうどバブル景気末期であり、1991年にはバブルがはじけたことによる大量リストラが行われたものの、幸いにも誠司はリストラ要員に選ばれることなく企画開発部のエンジニアへと昇格。以後は数多くの自動車やバイクの設計製造に携わることになった。

《企画開発部エンジニア時代》
1993年には軽自動車「タンク」の企画、設計を行いこれがヒット。世のボックス軽自動車の先駆けとなり、その翌年には「タンク」のマイナーチェンジ型として「タンクミニ」を発表。1995年には家族向けの軽自動車「バイエルン」の設計を担当し、これが空前の大ヒットとなる。
このころから次第に、モータースポーツ用の自動車に対する興味を強め、独学でレーシングカーの研究を開始。そして1997年の普通自動車「ハーゲン」の設計を最後に、一般向け自動車の設計からレーシングカーの設計へと活躍の場を移すことになる。

《トーハツ・ヨーロッパ・レーシングのエンジニアチーフに》
1998年、ヨーロッパに新設されたトーハツ・ヨーロッパ・レーシングがチーフエンジニアを探していることから、レーシングカーの独自研究を進めていたことを知っている企画開発部長の久留宮 莞爾に推薦され、同チームのチーフエンジニアに抜擢される。英語が少し話せることもありこれを快諾した誠司はすぐさまヨーロッパへと飛び、最新のモータースポーツ技術を学ぶ。
当時東京発動機はレーシングカーのノウハウを一切持ち合わせておらず、社長の肝入りで招聘された技術顧問が急病に倒れたこともあって、翌年度のレースに参加するためには誠司の腕にすべてがかかっているという状態だった。
このあまりにも重すぎる期待に応える形で設計を僅か一か月で完了させると、直ちに製造され整備も手ずから行った試作マシンは初走行で300km/hを記録。
これに手ごたえを感じた設計チームは更なる改良を加え、最終的には354km/hを記録する初代チームマシン「VM99」が完成し、翌年のツアーでは総合12位に入り込む。これは全くノウハウのなかったレースチームの初年度記録としては歴代2位の物である(1位はジョーノーチRC)。

《チーフエンジニアからフリーエンジニアへ》
トーハツ・ヨーロッパ・レーシングはその後2005年までのツアーに毎年参加し、優勝こそなかったものの2003年には総合4位を獲得するなどの大健闘を見せる。
しかし2006年、同チームの100%出資者だった東京発動機の業績悪化によりレースチームは無期限活動停止。これにより所属していたエンジニアの多くはヨーロッパ各地のレースチームへ引き抜かれ、事実上の解散状態に陥った。
チーフエンジニアであった誠司の元にも数多くのオファーが届いたものの、これをすべて断りヨーロッパの地でフリーエンジニアへと転向し、技術を学びながらチームの再始動を待つことを表明。
とはいえ実績を買われて様々なチームから助言を求められることも多く、「奇しくも若いころの日雇い労働者みたいな姿に立ち戻ってしまった」と本人はコメントをしている。
2010年にはこれまでの社会に対する技術的貢献により紫綬褒章を受章。この時帰国した際、東京発動機から終身名誉チーフエンジニアの役職を受ける。
ヨーロッパに戻った2011年からは拠点をドイツに定め、ドイツ最大手の自動車メーカーであるヴェルダーメーレン社の外部顧問を1年間務める。また、2014年にはフランスの自動車メーカーであるアルノー社の技術アドバイザーを1年間務める。

《現在》
2017年現在、スイスのジュネーブに在住。毎月一回の「キタガワ・エンジニアスクール」を主催し、フリーエンジニアとして数多くの後進育成に励んでいる。


【人物】
・幼少期のいじめの経験から陰気な性格だったようだが、過労と栄養失調で倒れてからは前向きになり、陰気さは物静かさへと変わっていった。
 ・またこの経験から非常に忍耐強く、寝食を忘れて仕事に打ち込むことも多々あったという。
 ・栄養失調で倒れた原因は、当時居住していたアパートの家賃を払うと手元に1万円も残らなかったからという[要出典]。
 ・ただこのアパートでは幾らかの友人を得たようで、前向きになったのは彼らのお陰と言われている[誰によって?]。

・東京発動機入社時は修理工に回されるものと考えていたようで、設計に興味はあったもののいきなり回されるとは思っていなかったようである。
 ・面接を担当した人事部長によると、提出された図面があまりにも克明だったため、ただの修理工はもったいないと判断したとのことらしい。
 ・のちにこの図面は「バイエルン」として結実し、大きな成功を収めることになる。

・ヨーロッパへ移住後は世界最高クラスのエンジニアたちとも交流し、高い評価を得ている。
 ・ドイツのヴェルダーメーレン・ワークスのエンジニアであるクラウス・ロンメルは「セージの車体は重心が低く、非常に安定性が高い。ドライバーのミスでない限り彼の車がスライドしたところを見たことがない」と話している。
 ・イギリスの古豪マクシミリアンのエンジニアであるカール・ブラッドレイは「設計はシンプルかつスマート、余計な機能を付けないことで安定性を高めるという逆転の発想が素晴らしい」と称賛している。

・トーハツ・ヨーロッパ・レーシングの事実上の解散に対し、東京発動機からの謝罪があったものの、「こういう事もありますよ」と特に気にする様子はなかったようである。
 ・「誘いがあるなら我々は引き留めることなどできない」という言葉にも、「僕はトーハツのエンジニアですから」と現在もレースチームの再始動を待っていることが知られている。

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