仁科 俊之

「入居年 1961年 退居年 1975年」

詳細

仁科 俊之(にしな としゆき、1939年9月1日 - 2004年5月7日)は日本の航空機技術者。六菱重工業東京航空機研究所(現・ゼネラルエレクトロニクスジャパン)の航空力学設計家主任技師や自衛隊技術研究本部の主任設計技師を歴任。
母方の伯父に、旧日本陸軍の軍人であり日中戦争におけるエースパイロットの一人である伊庭 欣三がいる。


【生涯】
《生い立ち》
1939年9月1日、信州の富裕な大地主である仁科家に長男として生まれる。折しも第二次世界大戦が勃発した日であり、父義之が近くの陸軍飛行場の要人と懇意にしているという事と、母方の伯父である伊庭 欣三が旧日本陸軍のパイロットであったことから、幼少期より軍隊やその兵器に親しんで過ごす。
とりわけ航空機に対しては一目見た時から興味を持っていたようで、物心ついたころから伯父からの手紙を読んでは、空を見上げていることが多い子供だったという。
一家が住んでいた信州は幸いにして大きな戦災を被ることなく、しかし戦後のGHQの統治下における農地改革で多くの土地を手放すことになり、親族を頼って茨城県へと移住。そこで父義之が商才を発揮し、小さいながらも商店を経営することで一家は生計を立てることになる。

《夢の挫折と伯父の死》
1951年に小学校を卒業し、地元の名門中学校へと進学した。勉強が好きな子供であったため、成績は良好であり、入学時には新入生を代表して答辞を読むほどであった。しかしながら在学中には幼少期からの夢であった航空機のパイロットになるという夢を強く抱き、卒業後にはパイロットになることを志望する。
だが旧日本軍が解体されており、そして勉学に努めていたがために視力が低下しており、パイロットとなるには視力が不足していたことからその夢は叶わぬものとなってしまう。
1954年、自衛隊が創設されたその年に高等学校へと進学する。ここでも優秀な成績を修めていたため、二年次には東京の大学への推薦を得るほどであったという。
しかし卒業を間近に控えた1956年、自身が高等学校へと入学したその年に、奇しくも住んでいた地域の傍にある習志野飛行場で伯父である伊庭 欣三が、人知れず航空事故死していたことを知り強い衝撃を受ける。
以後、航空機のパイロットになる夢は諦め、航空機技術者の道を志す様になる。

《日本航空大学へ》
1957年、推薦を受けていた東京の大学へ進学せず、山梨県の専門学校である日本航空大学へと進学する。本人たっての希望であり、同級生[誰?]によると「伯父のようなパイロットをこれ以上生み出さないため」と常々周囲に零していたという[要出典]。
在学中の素行は優秀で、成績は上位に位置し、何事も腰を据えて取り組む真面目な生徒であった。破格の優秀さから米国の大学で航空力学を学ぶべきだ、という意見も学内から出たが本人は断ったという。
四年制の航空力学科を万事終え、卒業制作では旧日本軍の戦闘機「隼」を理論上どう修正すればより良い性能を出せるのかという命題で論文を提出し、一定の評価を得る。この論文は現在でも日本航空大学の資料室に保管されており、閲覧が可能である。

《六菱重工業へ入社》
1961年、東京の総合企業である六菱重工業の航空機開発部門へ入社する。
しかし入社後まもなく、航空自衛隊ではアメリカ産の戦闘機F-104の配備が決定され、航空機開発部門は緊縮方向へと取締役会で決議がなされることになった。俊之はこれに酷く憤り、取締役のところまで直談判に行ったものの門前払いを受けたという。
この扱いに衝撃を受けたが航空機開発への熱意が衰えることはなく、緊縮された航空機開発部門でひたすら設計技術を磨く雌伏の時を過ごす。この時期に、同社の先輩技術者である小倉 清三郎や木下 幸之進といった、のちに国産戦闘機開発へ携わる技術者との交流を得る。

《国産戦闘機の道とF-1支援戦闘機開発》
1970年、超音速高等練習機T-2の開発に携わる。この開発において俊之は数多くいる設計技師の一人にすぎなかったが、航空力学の観点から見た翼の形状に違和感を抱き、これの修正案を提示することで主任設計技師を担当していた島津 包久の信頼を得る。
この超音速高等練習機T-2は戦後日本初の国産戦闘機であるF-1支援戦闘機に転用、改造されることが決定されており、引き続き行われたF-1支援戦闘機の開発に大きく貢献。この功績により、新設された東京航空機研究所の主任設計技師へと抜擢される。

《自衛隊技術研究本部の設計責任者へ》
1975年、自衛隊の技術研究本部へ転属。功績ある主任設計技師を転属させることに多くの批判が社内から上がったものの、その数年後には東京航空機研究所は外資により買収、ゼネラルエレクトロニクスジャパンへと社名が変わることになる。現在では多くの識者が、優秀な人材の流出を防止するための苦肉の策であったと断じている。

《F-2の主任設計技師へ》
1982年、国防会議により「次期支援戦闘機 (FSX) 24機の整備」が承認され、新しい支援戦闘機の開発がスタートする。しかしこの開発は日米の貿易摩擦などによる政治的事情から大きな混乱を招き、開発設計チームが設置されるのは1990年にまでずれ込むことになる。
俊之はこの開発設計チームの主任設計技師となり、航空力学に基づいた機体形状の設計から、エアインテークの最適化に至るまでありとあらゆる場面で指揮を執ることになる。
一方で部下の設計技師からの意見をないがしろにすることなく、必ずその意見は取り上げ、全設計技師を集めてより良い物にできないかと繰り返しの検証を行った。
1992年にはモックアップの作成が行われ、速やかに試作機が4機製作される。1995年、試作機1号が試験飛行に成功し、これは「XF-2」と名付けられ防衛庁へと納入される。以後、2号機と3号機、4号機も同じように納入され、開発は完了した。

《退職と晩年》
F-2の開発完了に伴い1999年、技術研究本部を退職する。退職後は都内郊外の閑静な住宅地に居を構え、悠々自適の生活を送っていたようだが、2004年に急性心不全によって倒れ、そのまま死去する。享年65歳。


【人物】
・六菱重工業の同僚によると、非常に温和で温厚な人柄であった。
 ・一方で自分が正しいと信じることに関してはかなり頑固な人物だったとしている
 ・とりわけ設計思想については一切の妥協をせず、往々にしてその曲げなかったことが正しいと分かり、信頼を得たようである。
 ・座右の銘は「失敗は成功の母」「千の考案、百の結論、十の実行、一の成功」。失敗した理由さえ分かるのであれば、その失敗を責めることはなく、自身も気にすることはなかったようである。

・設計理念は「新人パイロットだとしてもいかにして生還させるか」を念頭に置いていた。
 ・そのため設計時には、ベイルアウト用のイジェクトシートが十分な性能であることを繰り返し確認したという。
 ・また緊急時の自動制御に関するAIについても強い関心を持ち、それらへの投資を主張していた。
 ・これらの設計理念はやはり伯父の事故死から来ているようで[要出典]、「自ら墜落しようとしてもできない航空機」を理想としていたようである。

・趣味はバードウォッチングであり、酒や煙草は嗜むも多くはなかったという。
 ・鳥が飛ぶさまが飛行機に役立てられないか、という研究者肌から来た趣味だった。
 ・酒についてはビール二杯で倒れるほどの下戸であり、酒好きだが弱いという人物だった。

・上京した時には、伯父である伊庭 欣三がかつて住んでいたというアパートを探し出して、そこに居住していたという[要出典]。
 ・伊庭に対してはかなりの憧れを抱いており、その事故死を知った際にはかなりふさぎ込んだと言われる[誰によって?]。

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