伊庭 欣三

「入居年 1939年 退居年 1953年」

詳細

伊庭 欣三(いば きんぞう、1921年9月23日 - 1954年8月1日)は日本の陸軍軍人、航空自衛官。陸兵54期。日中戦争におけるエースパイロットの一人。


【生涯】
1921年9月23日、旧華族であり大地主でもあった伊庭家の長男として生まれる。幼いころから明朗快活で非常に明るく、やんちゃな子供だったという。
地元の中学校には五番目の成績で入学し、成績も素行も優秀なまま卒業する。同期生は「自然と人の輪の中心になる明るさがあり、腕っぷしは強かったが滅多に使う事はなく、大半の事は人と話して解決できる忍耐強さがあった」と語っている。

《陸軍兵学校および航空学校時代》
中学校を卒業後は陸軍兵学校へ三番目の成績で入校。一年次より航空機に対する興味を強め、自発的に航空部隊へのあこがれを強める。
陸軍兵学校を卒業後は航空学校への入校を希望し、これが認められ飛行学生を拝命。少尉候補生としての訓練を受け始める。

《二一一空》
1941年4月1日、飛行学生を卒業し陸軍少尉として着任。軍一般命令により中国戦線へと異動となる。配属は第二一一戦闘飛行中隊、第三分隊長。
着任後は受領した中島九七式戦闘機を用いて訓練を行うも、僅か11日目にして国民党の航空部隊と衝突しこれと交戦。一機を撃墜、一機を協同撃墜する。
以後1943年に本土への召喚が行われるまで、第二一一戦闘飛行中隊に所属中、3機撃墜、11機協同撃墜を記録する。

《七〇七空》
1943年8月1日付で本土へと召喚、新編される第七〇七戦闘飛行中隊の中隊長に任命される。三か月間の編成期間を終え、中島一式戦闘機「隼」を受領。
11月1日に第七〇七戦闘飛行中隊と共に再び中国戦線へと異動。以後、1945年5月31日の再度の本土への召喚が行われるまで、4機撃墜、18機協同撃墜を記録する。

《菊水部隊》
1945年6月1日、九州を本拠地とする特攻部隊として「菊水部隊」が編成され、第二飛行中隊長として着任。二か月の再編期間を終えて8月20日に沖縄への出撃を予定していたところで8月15日の終戦を迎える。

《航空自衛隊設立に伴う先任教官》
終戦後は定職につかず、肉体労働の日雇い労働者として日銭を稼いでいたとされる[誰によって?]。
1953年7月1日、航空自衛隊設立の一年前より、旧日本陸海軍のパイロットを教官として招致する計画により応召され、教官として教鞭をとる。
当時薫陶を受けた生徒の一人であり、のちに空将補となる衣笠 肇によると、「伊庭教官は終始寡黙で陰鬱な方であり、初めてお会いしたときは本当に旧日本軍のパイロットかと疑いました。しかしかつての経験が裏付ける勘所と言いますか、僚機と共に畳みかける好機を見る感覚というのは卓抜でありました」と述べている。

《テスト飛行、そして事故死》
1954年8月1日、航空自衛隊が設立して間もなく、正式採用の戦闘機の選定試験として当時米国で旧式となったP-51マスタングを用いたテスト飛行に、テストパイロットとして志願する。
しかし離陸後14分が経過したころ、突如としてエンジンより煙が上がり、そのまま回転しながら墜落。搭乗していた伊庭は直ちに病院へ搬送されたものの、死亡が確認された。享年32歳。
当時選定試験の担当官であった伊崎 清次郎は以下のように述懐している。
『(前略)
習志野飛行場から飛び立ったP-51マスタングは高度をぐんぐんと上げていき、その姿はさながらかつての旧日本軍の機体を思わせるような軽快さでありました。しかしながらしばらく習志野飛行場の上空を飛び回っていたP-51は、そのエンジンから火を噴き、やがて操縦不能となったようで、きりもみ回転をしながら落ちてきたのです。
(中略)
テストパイロットである伊庭欣三君は、旧日本陸軍の優秀なパイロットではありましたが、実機の操縦にはいささかブランクがあり、それが不安視されていたのであります。何せあのエンジントラブルは、彼ほどのパイロットであれば適切な対処が行えたであろうものでしたし、そうすればあの優秀なパイロットは不時着を行い、生きて帰ったかもしれないのです。
(中略)
どちらにしても、この事故により優秀なパイロット一名が死亡したことにより、P-51マスタングの正式採用の話は立ち消えとなりました。それは非常に残念なことであり、さらに言えば大いなる人材の損失でもありましたが、日本の航空産業の国産化が加速する端緒となった事件でもあるという事は、きわめて皮肉なことでありましょう』



【人物】
・飛行学生時代は非常に明朗快活な生活で、同学年の学生の中心的人物だったという。
 ・同級生たちに麻雀を教えたのは伊庭だったという。しかし、実力は中の下でよく負けていた。
 ・かなりの大食漢であり、残飯となるぐらいなら、と同級生の残した飯を食っていた。

・中国戦線で活躍し「グリーンファイター」と呼ばれた。これは指揮官機識別の緑のラインから来ている。
 ・協同撃墜数が多く単独撃墜数が少ないのは、自らを囮にし僚機が撃墜するという戦法を好んでいたからである。
 ・「俺は射撃が下手で、弾を無駄遣いしてしまうから」という理由であったようだが、当時二一一空で僚機を務めていた篠田 義治曹長によると「射撃の腕は隊の誰よりも上手かった」という証言がある。
 ・七○七空の同僚とは非常に仲が良かったものの、伊庭が本土へ応召され菊水部隊として出撃する数か月~数日前に全員が沖縄の空で散華しており、戦後航空自衛隊の応召に応じるまでその事実は知らなかったという。

・戦後の消息は、航空自衛隊の応召に応じるまでほとんど不詳である。
 ・唯一判明しているのは、すでに嫁いだ妹を除く一族の全員が空爆で亡くなっていることであり、誰を頼ることもなく日々を過ごしていたものと思われる[誰によって?]。
 ・また人事の不手際により、一時期戦死したことになっており、その報告が実家や当時居住していたアパートに届けられたとされる[要出展]。

日記

1953年3月31日
記入者:伊庭 欣三
朝、起きる。工事現場に行って働いて、昼飯を食って働いて。

帰ってきて、寝る。

そしてまた、朝が来る。

変わらない。

もう、何年こんな生活をつづけただろうか。

俺は、このまま朽ち果てていくのだろうか。

それなら、それでいい。
1953年6月1日
記入者:伊庭 欣三
国から、通知が来た。

「航空自衛隊」なるものを設立するらしい。

そのために、旧軍のパイロットが欲しい、と。

都合のいいことだ、全く。

あれだけ、俺たちを使い捨てにして。

今になって力を貸してくれ、だと。

ふざけるな、そう言いたい。心底腹が立つ。

そうとも、心の底から腹が立つ。

国の役人じゃあない。

この通知を読んで、それを理解した瞬間。

また空を飛びたがった、俺の浅ましい心が、心底腹立たしい。
1953年6月15日
記入者:伊庭 欣三
俺は。

俺はまだ、空を飛びたかったんだな。
1953年6月29日
記入者:伊庭 欣三
行こう。

このまま腐るより、せめてこの心を燃やして。

そうでもしなければ、仲間が、皆が、きっと怒るに違いない。
1953年6月30日
記入者:伊庭 欣三
桜之荘。

もう二度と戻ることはないだろうけれど。

でも、俺は行きます。

ありがとう、鼎さん。

あなたのおかげで、俺はもう一度心を燃やす機会が得られました。

願わくば、俺の行く先に幸あることを祈って居てくれれば、幸いです。
1953年7月3日
記入者:無記名
おれは、一人だ。

だれもいない。

七〇七のなかまも、さくらのそうのなかまも。

ここにくれば、だれかとあえるとしんじていたのに。

ああ、こんなことなら。

かなえさんのところにいるんだった。
1954年7月30日
記入者:無記名
ばかげている。

たくさんのなかまをころした、アメリカのひこうき。

それを、日本のそらをまもるのにつかうだと。

日本のそらは、日本のひこうきがまもるべきだ。

そうだろう、みんな。
1954年8月1日
記入者:無記名
みんなに、あいにいきます。

さよなら、かなえさん。

おれは、さきにいきます。

できれば、十ねんでも、二十ねんでも。

ずっとながく、むこうでおれをまたせてください。

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